沖野先生のご逝去(後)(2019/01/18)
先生とのお付き合いは研修医時代に、夜の当直先として沖野病院に行くようになってからではないだろうか。どうして沖野病院に行くようになったのかははっきり覚えていないが、私たちより前に当直をされていた塗木先生の紹介か、私の兄の斡旋があったのだろうか。
当時私たちは医学部を卒業し国家試験に合格した後、入局することなくいくつかの診療科をローテイトしながら研修していくというシステムになっていた。沖野病院には私と丸山先生(臨床医学講座前教授。前夜式に参加されたそうで、やはり当直が懐かしいと書かれていた)と中条先生(前放射線科教授)の三人が担当し、時々他の先生方も当直をお願いしたように記憶している。三内科に入局した後も、時々当直に行っていたように思う。4階に個室の当直室があり、今考えればさほどおいしくない夕食をご馳走と思いながら美味しく食べていた時代である。引き継ぎも兼ねて机の上の大学ノートに、患者さんの容体などの引き継ぎ以外に、思い思いの感想や意見を書いていた。このノートを沖野先生は、「私の宝物です」と大切にされてくれていたそうである(井形教授から伺ったことがある)。
当直をしなくなってからもしばらくの間は、忘年会などには招待されていた。磯にあった立派な割烹料亭(現在は取り壊されて駐車場になっている)で開催されることもあって、当時は物珍しさもあって喜んで参加していたものである。バブル前からバブルにかけての時代で賞品も豪華だった。
1973年に父がくも膜下出血を発症した時には、最初に入院させてもらったのも沖野病院だった。その後、大学病院に搬送されたが2週間ほどで再出血して亡くなった。
また先生は私の恩師の井形教授とも懇意にされていた。私の義父とも二中時代の同級生で、市の医師会活動でも一緒に理事をしておられた仲である。このことは勿論結婚してからわかったことで、「柴ちゃん(義父)とこんなことになろうとは」と笑いながら、よく話しておられたものである。
先生は鹿児島大学卒業後、名古屋大学の一内科で研修されており(名古屋大学神経内科OBでもある)、神経学会では私にとっては大先輩の名古屋大学の先生方とも交友があり、それを誇りにされていた。
また有村章博士(鹿児島市出身で鹿児島二中、七高から名古屋大学医学部を卒業、1965年からチユーレン大学でシャリー博士の片腕として、視床下部ホルモンの研究に従事。1977年シャリー博士はノーベル賞を受賞したが、有村博士の貢献無しにはその受賞はあり得なかったと言われている。ニューロサイエンス(神経科学)の第一人者である博士の学術論文は800を越え、世界で最も引用数の多い科学者に数えられている)のことを、よく話題にされていたものである。
今日の挨拶で、鹿児島市の志學館学園の理事をされていた関係で、系列の女子大や高校の健診もよく頼まれたものである。
偶然、沖野先生からみれば友人の娘と結婚したということもあってか、私のことも何かにつけ気にしてくださり、いつも見守ってくれる有難い存在だった。今はなくなってしまったが、天文館の永田シロアリビルの「街」のカウンターで、何度もご一緒したことも懐かしい思い出である。
当時私たちは医学部を卒業し国家試験に合格した後、入局することなくいくつかの診療科をローテイトしながら研修していくというシステムになっていた。沖野病院には私と丸山先生(臨床医学講座前教授。前夜式に参加されたそうで、やはり当直が懐かしいと書かれていた)と中条先生(前放射線科教授)の三人が担当し、時々他の先生方も当直をお願いしたように記憶している。三内科に入局した後も、時々当直に行っていたように思う。4階に個室の当直室があり、今考えればさほどおいしくない夕食をご馳走と思いながら美味しく食べていた時代である。引き継ぎも兼ねて机の上の大学ノートに、患者さんの容体などの引き継ぎ以外に、思い思いの感想や意見を書いていた。このノートを沖野先生は、「私の宝物です」と大切にされてくれていたそうである(井形教授から伺ったことがある)。
当直をしなくなってからもしばらくの間は、忘年会などには招待されていた。磯にあった立派な割烹料亭(現在は取り壊されて駐車場になっている)で開催されることもあって、当時は物珍しさもあって喜んで参加していたものである。バブル前からバブルにかけての時代で賞品も豪華だった。
1973年に父がくも膜下出血を発症した時には、最初に入院させてもらったのも沖野病院だった。その後、大学病院に搬送されたが2週間ほどで再出血して亡くなった。
また先生は私の恩師の井形教授とも懇意にされていた。私の義父とも二中時代の同級生で、市の医師会活動でも一緒に理事をしておられた仲である。このことは勿論結婚してからわかったことで、「柴ちゃん(義父)とこんなことになろうとは」と笑いながら、よく話しておられたものである。
先生は鹿児島大学卒業後、名古屋大学の一内科で研修されており(名古屋大学神経内科OBでもある)、神経学会では私にとっては大先輩の名古屋大学の先生方とも交友があり、それを誇りにされていた。
また有村章博士(鹿児島市出身で鹿児島二中、七高から名古屋大学医学部を卒業、1965年からチユーレン大学でシャリー博士の片腕として、視床下部ホルモンの研究に従事。1977年シャリー博士はノーベル賞を受賞したが、有村博士の貢献無しにはその受賞はあり得なかったと言われている。ニューロサイエンス(神経科学)の第一人者である博士の学術論文は800を越え、世界で最も引用数の多い科学者に数えられている)のことを、よく話題にされていたものである。
今日の挨拶で、鹿児島市の志學館学園の理事をされていた関係で、系列の女子大や高校の健診もよく頼まれたものである。
偶然、沖野先生からみれば友人の娘と結婚したということもあってか、私のことも何かにつけ気にしてくださり、いつも見守ってくれる有難い存在だった。今はなくなってしまったが、天文館の永田シロアリビルの「街」のカウンターで、何度もご一緒したことも懐かしい思い出である。
