チューリップ(2015/02/16)
日高君の絵が、「ノーマライゼーション」の2013年1月号から12月号までの表紙を飾ってから、早いもので2年が経つ。そして昨年の5月に、彼は静かに旅立って逝った。
先日、編集者の薄さんからCDに保存したグラフィックの絵の全てが送られてきた。同封された手紙に、生前、薄さんに送ったメール(2013年4月10日)も同封されていた。
・・・さて、今日は少し福永先生の話をします。先生が赴任された時(1984年)にはすでに僕は入院していましたが、主治医ではなかった(最後まで)ので、あまり接する機会はなかったです。先生と僕が親しくなったのは、僕が絵を描きはじめてからです。とはいっても、20年以上ですが、その間、先生はいろいろな所で僕の絵を使ってくださいました。そのおかげで、いろいろな人と出会えることができました。もちろん薄さんもその一人です。なので、先生には感謝しても足りませんね。
彼の歌集「花のちから」の末尾に添えられた年譜では、1976年5月に佐多町立大泊小学校から、指宿養護学校加治木分校小学部3年に編入している(同時に、南九州病院に入院)。ついでに年譜を続けると、1986年3月に加治木養護学校高等部を卒業、翌年、県民大学で短歌と出会う、と記されている。同年(20歳)に体外式陰圧人工呼吸器を、1991年(23歳)に気管切開して陽圧式の人工呼吸器を装着している。同年、パソコンとの出会いがあり、1993年に花文集「花の贈りもの」を出版している。1998年に兄貴分として慕っていた轟木君が亡くなり、同年10月、世界火山会議の時のコンピューターグラフィック部門で受賞されている。
ちなみに私は彼が入院した翌年の1977年4月から翌年3月までの一年間、医局から派遣されているので、最初の出会いはこの時になる。当時、筋ジス病棟では主治医を変えることはなかったので、出戻りで1984年に復帰してからも日高君の主治医になったことはなかった。
私は筋ジスの患者さんの作品をできるだけ多くの人に観てもらいたくて、当時彼のグラフィックだけでなくいろいろな患者さんの作品を紹介していた。日高君のグラフィックは私の制作した患者さん向けの「しおり」や、緩和ケア棟、重心病棟の天井画などにも利用させてもらった。また「随筆かごしま」には彼の絵と、私の小さなコメントによる合作を6回ほど載せてもらった。
先日、院長室の前の花瓶に、黄色い花びらのチューリップを飾ってくれていた。小学校の頃に先生からチューリップの球根をもらって、大切に育てたことがある。茎が伸びてきて、真っ赤な花が開くと、どうしようもなく嬉しかった。当時はチューリップの花は、とても大切な貴重品に思えた。この花に対する思い入れが強いのは、オランダの風車とチューリップの花が結びついて、まだ行ったこともない「西洋」への憧れによるものだったのか。また「さいた さいた チューリップの花が ならんだ ならんだ あか しろ きいろ どの花見ても きれいだな」の童謡も伏線としてあったのかも知れない。
日本では富山県の砺波市のチューリップが有名であるが、品種改良が進み学校や公園で色とりどりの花を楽しめる。鹿児島では温暖な気候のお蔭で四季とりどりいつでも花を楽しめるようになったが、それでもやはり春の花々は格別である。
先日、編集者の薄さんからCDに保存したグラフィックの絵の全てが送られてきた。同封された手紙に、生前、薄さんに送ったメール(2013年4月10日)も同封されていた。
・・・さて、今日は少し福永先生の話をします。先生が赴任された時(1984年)にはすでに僕は入院していましたが、主治医ではなかった(最後まで)ので、あまり接する機会はなかったです。先生と僕が親しくなったのは、僕が絵を描きはじめてからです。とはいっても、20年以上ですが、その間、先生はいろいろな所で僕の絵を使ってくださいました。そのおかげで、いろいろな人と出会えることができました。もちろん薄さんもその一人です。なので、先生には感謝しても足りませんね。
彼の歌集「花のちから」の末尾に添えられた年譜では、1976年5月に佐多町立大泊小学校から、指宿養護学校加治木分校小学部3年に編入している(同時に、南九州病院に入院)。ついでに年譜を続けると、1986年3月に加治木養護学校高等部を卒業、翌年、県民大学で短歌と出会う、と記されている。同年(20歳)に体外式陰圧人工呼吸器を、1991年(23歳)に気管切開して陽圧式の人工呼吸器を装着している。同年、パソコンとの出会いがあり、1993年に花文集「花の贈りもの」を出版している。1998年に兄貴分として慕っていた轟木君が亡くなり、同年10月、世界火山会議の時のコンピューターグラフィック部門で受賞されている。
ちなみに私は彼が入院した翌年の1977年4月から翌年3月までの一年間、医局から派遣されているので、最初の出会いはこの時になる。当時、筋ジス病棟では主治医を変えることはなかったので、出戻りで1984年に復帰してからも日高君の主治医になったことはなかった。
私は筋ジスの患者さんの作品をできるだけ多くの人に観てもらいたくて、当時彼のグラフィックだけでなくいろいろな患者さんの作品を紹介していた。日高君のグラフィックは私の制作した患者さん向けの「しおり」や、緩和ケア棟、重心病棟の天井画などにも利用させてもらった。また「随筆かごしま」には彼の絵と、私の小さなコメントによる合作を6回ほど載せてもらった。
先日、院長室の前の花瓶に、黄色い花びらのチューリップを飾ってくれていた。小学校の頃に先生からチューリップの球根をもらって、大切に育てたことがある。茎が伸びてきて、真っ赤な花が開くと、どうしようもなく嬉しかった。当時はチューリップの花は、とても大切な貴重品に思えた。この花に対する思い入れが強いのは、オランダの風車とチューリップの花が結びついて、まだ行ったこともない「西洋」への憧れによるものだったのか。また「さいた さいた チューリップの花が ならんだ ならんだ あか しろ きいろ どの花見ても きれいだな」の童謡も伏線としてあったのかも知れない。
日本では富山県の砺波市のチューリップが有名であるが、品種改良が進み学校や公園で色とりどりの花を楽しめる。鹿児島では温暖な気候のお蔭で四季とりどりいつでも花を楽しめるようになったが、それでもやはり春の花々は格別である。
