(1)備忘録のつもりで(2015/08/25)
徒然草の第三十段「人のなきあとばかり」のくだりは、「人の亡き跡ばかり、悲しきはなし」で始まる。当時の習わしでは近親者は四十九日もの間山小屋に籠もることになっていたようで、現代語訳(吾妻利秋)では次のように続く。
人が死んだら、すごく悲しい。四十九日の間、山小屋にこもり不便で窮屈な処に大勢が鮨詰め状態で法事を済ませると、急がされる心地がする。その時間の過ぎていく速さは、言葉では表現できない。最終日には、皆が気まずくなって口もきかなくなり、涼しい顔をして荷造りを済ませ、蜘蛛の子を散らすように帰っていく。帰宅してからが、本当の悲しみに暮れる事も多い。・・・
さすがに兼好法師、「帰宅してからが、本当の悲しみに暮れる事が多い」とは、人の心の機微をよくとらえている。
一方、(法師の生きた鎌倉時代末期と違って)21世紀に生きる私は、葬式の翌日にはもういつもの日常が始まって、厚労省の委員会(疾病対策部会&難病対策委員会)に出席するために鹿児島空港の待合室でこの項を書き始めている。空虚感や虚脱感に浸っている暇がないのは、かえって幸いなことかも知れない。
人間は忘却の天才といわれているので、今から書く内容は孫やひ孫へのメッセージだと考えている。すべからく個人的な「備忘録」の類なので、そのことをご承知の上で読んでいただければ幸いである。
母が8月18日の11時51分に、出水市立総合医療センターで安らかに眠るように息を引き取った。その夜に通夜、そして翌日19日に葬儀と初七日の法要をあわただしく済ませた。全て家族と近親者だけの「家族葬」で執り行なわれたが、「天国斎場みそらホール」のスタッフの細やかな気配りもあって、私が云々することではないかも知れないが、厳かで温もりの感じられる法事になった。
振り返れば脳出血後の10日間あまり、母は生死の境を彷徨っていた。一日ごとに容態が変化して、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、次第に終末へと近づいて行くのが手に取るようにわかった。それでも人が「いのち」を終えようとする時、何時になるかを正確に予測することは難しいことだと、母の死を経験しながらつくづく思うことである。
母の死に臨んで比較的冷静に対処できたのは、95歳(満年齢)という年齢もさることながら、11年前に脳梗塞を患いその後車いすの生活があり、そしてここ数年は少しずつ認知症が進んでいたという、いわば生命の階段を一段ずつ確実に降りていたからだろう。もちろん肉親の死はその年齢に関係なく、限りなく悲しいことには変わりはないのだが。
人間は一度は死ぬる運命にある。母は痛みもなく眠るようにあの世に逝けたことは、残される者にとっては一番の救いである。最近までよく、「こんな小さい体で、こんなに長生きして申し訳ない」などと淡々と話していた。そして「子供たちに迷惑をかけずにすんだ。これもお父さんのお陰。みんないい子で、いい嫁さんで、いい孫も生まれて何の心残りもない」と。また尊厳死という言葉は使わなかったが、いわゆる延命治療はしてほしくないと何度も繰り返していた。
8月15日、終戦記念日の朝、たまたまユーチューブで島倉千代子の「東京だよおっ母さん」という歌謡曲を聞いた。この歌は1957年に野村俊夫作詞、舩村徹作曲で日本コロンビアから発売されたものであるが、船村ご自身の母親への思いを島倉が熱唱している。そういえば、亡くなった私の父は島倉のファンだった。
1957年というと、私たち一家が頴娃町の田舎から鹿児島市に移ってきた年にあたる。私も母とのいろいろな思い出が蘇って、また親孝行らしい孝行もできなかったことへの悔恨の情も沸いてきて、誰もいない部屋で一人涙した。私は小さいころの記憶はあまりないが、家内の子どもたちへの、そして娘の孫への関わり方を傍で見ていると、特に母親のわが子どもへの愛情は尽きるものではないだろうと思うことである。私にとっての一つの救いは、「ヒデトシは一度も心配をかけたことがなかった」という母の言葉である。ただよくよく考えてみれば4人兄弟の3番目で、忙しさの中でほとんど忘れ去られたような存在だったのかも知れないと思うことである。
久しぶりに 手をひいて 親子で歩ける うれしさに 小さい頃が 浮かんできますよ
おっ母さん ここがここが二重橋 記念の写真を とりましょうね
やさしかった 兄さんが 田舎の話を 聞きたいと 桜の下で さぞかし待つだろ
おっ母さん あれがあれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも
さあさ着いた 着きました 達者で永生き するように お参りしましょよ
観音様です おっ母さん ここがここが浅草よ お祭りみたいに にぎやかね
人が死んだら、すごく悲しい。四十九日の間、山小屋にこもり不便で窮屈な処に大勢が鮨詰め状態で法事を済ませると、急がされる心地がする。その時間の過ぎていく速さは、言葉では表現できない。最終日には、皆が気まずくなって口もきかなくなり、涼しい顔をして荷造りを済ませ、蜘蛛の子を散らすように帰っていく。帰宅してからが、本当の悲しみに暮れる事も多い。・・・
さすがに兼好法師、「帰宅してからが、本当の悲しみに暮れる事が多い」とは、人の心の機微をよくとらえている。
一方、(法師の生きた鎌倉時代末期と違って)21世紀に生きる私は、葬式の翌日にはもういつもの日常が始まって、厚労省の委員会(疾病対策部会&難病対策委員会)に出席するために鹿児島空港の待合室でこの項を書き始めている。空虚感や虚脱感に浸っている暇がないのは、かえって幸いなことかも知れない。
人間は忘却の天才といわれているので、今から書く内容は孫やひ孫へのメッセージだと考えている。すべからく個人的な「備忘録」の類なので、そのことをご承知の上で読んでいただければ幸いである。
母が8月18日の11時51分に、出水市立総合医療センターで安らかに眠るように息を引き取った。その夜に通夜、そして翌日19日に葬儀と初七日の法要をあわただしく済ませた。全て家族と近親者だけの「家族葬」で執り行なわれたが、「天国斎場みそらホール」のスタッフの細やかな気配りもあって、私が云々することではないかも知れないが、厳かで温もりの感じられる法事になった。
振り返れば脳出血後の10日間あまり、母は生死の境を彷徨っていた。一日ごとに容態が変化して、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、次第に終末へと近づいて行くのが手に取るようにわかった。それでも人が「いのち」を終えようとする時、何時になるかを正確に予測することは難しいことだと、母の死を経験しながらつくづく思うことである。
母の死に臨んで比較的冷静に対処できたのは、95歳(満年齢)という年齢もさることながら、11年前に脳梗塞を患いその後車いすの生活があり、そしてここ数年は少しずつ認知症が進んでいたという、いわば生命の階段を一段ずつ確実に降りていたからだろう。もちろん肉親の死はその年齢に関係なく、限りなく悲しいことには変わりはないのだが。
人間は一度は死ぬる運命にある。母は痛みもなく眠るようにあの世に逝けたことは、残される者にとっては一番の救いである。最近までよく、「こんな小さい体で、こんなに長生きして申し訳ない」などと淡々と話していた。そして「子供たちに迷惑をかけずにすんだ。これもお父さんのお陰。みんないい子で、いい嫁さんで、いい孫も生まれて何の心残りもない」と。また尊厳死という言葉は使わなかったが、いわゆる延命治療はしてほしくないと何度も繰り返していた。
8月15日、終戦記念日の朝、たまたまユーチューブで島倉千代子の「東京だよおっ母さん」という歌謡曲を聞いた。この歌は1957年に野村俊夫作詞、舩村徹作曲で日本コロンビアから発売されたものであるが、船村ご自身の母親への思いを島倉が熱唱している。そういえば、亡くなった私の父は島倉のファンだった。
1957年というと、私たち一家が頴娃町の田舎から鹿児島市に移ってきた年にあたる。私も母とのいろいろな思い出が蘇って、また親孝行らしい孝行もできなかったことへの悔恨の情も沸いてきて、誰もいない部屋で一人涙した。私は小さいころの記憶はあまりないが、家内の子どもたちへの、そして娘の孫への関わり方を傍で見ていると、特に母親のわが子どもへの愛情は尽きるものではないだろうと思うことである。私にとっての一つの救いは、「ヒデトシは一度も心配をかけたことがなかった」という母の言葉である。ただよくよく考えてみれば4人兄弟の3番目で、忙しさの中でほとんど忘れ去られたような存在だったのかも知れないと思うことである。
久しぶりに 手をひいて 親子で歩ける うれしさに 小さい頃が 浮かんできますよ
おっ母さん ここがここが二重橋 記念の写真を とりましょうね
やさしかった 兄さんが 田舎の話を 聞きたいと 桜の下で さぞかし待つだろ
おっ母さん あれがあれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも
さあさ着いた 着きました 達者で永生き するように お参りしましょよ
観音様です おっ母さん ここがここが浅草よ お祭りみたいに にぎやかね
