大往生といえる母の死(2015/08/21)
(通夜の時、みそらホールの人から、「書状をどうしますか」と尋ねられた。型にはまったものはつまらないということになり、私にお鉢が回ってきた。葬式の朝、病院で書いたものを火葬場で兄弟に回覧し、同意を得て完成したものである。また直に、あるいはメールなどでお悔みの言葉を頂いて恐縮である。でもありがとう)。
私たち家族にとってかけがえのない母は、平成27年8月18日、享年96(歳)で安らかに浄土へと旅立ちました。
母の死に臨んで比較的冷静に対応できましたのは96歳という年齢もさることながら、11年前に脳梗塞を患い、その後車いすの生活があり、ここ数年は少しずつ認知症が進むという、いわば生命の階段を一段ずつ降りて行ったからだと思います。
人は一度は死ぬる運命にあります。母が痛みもなく眠るようにあの世に逝けたことは、残された者にとっては一番の救いです。最近よく「こんな小さい体で、こんなに長生きして申し訳ない」とか、「子供たちに迷惑をかけずに済んだ。これもお父さんのお陰。いい子、いい嫁さん、いい孫に恵まれて、何の心残りもない」と話していました。尊厳死という言葉は使いませんでしたが、いわゆる延命治療はしてほしくないと何度も話していましたので、本望が遂げられたと感じています。
母は大正9年に揖宿郡の小さな半農半漁の村で生まれ、昭和、平成という時代をたくましく生きぬいてきました。戦前に鹿児島市立女子興業を卒業後に教職として働いていた時に、同じ教職の父と結婚しました。母の言葉を借りれば「勉強しやすい環境を作り、いい習慣をつけさせる」という躾けで子供たち4人を育ててくれました。父が61歳で急逝した後はそれなりの苦労はあったはずですが、人前ではその苦労など一切見せずに、いつどんな時にも前向きに、おおらかに、ほがらかに、気丈に生きた母でした。
子どもたちがそれぞれ独立してからは、私たちを育てた原良町で一人暮らしをしていたのですが、弟の開業を機に出水市に移転し、心優しい弟夫妻や気心のあった家政婦さんに囲まれて、豊かな余生を送ることができました。さつきの鉢植えを楽しみ、書道に精進し、グラウンドゴルフで汗を流していました。
最期の生活の場となった有料老人ホームいずみと、看取っていただいた出水総合医療センターの皆さんの、親身の介護と医療には深甚の感謝の気持ちでいっぱいです。
皆さまにはいつもご厚情を賜り、実り多き人生を全うさせていただいた母に代わり、家族一同、心より感謝申し上げます。
略儀ながら書状をもって厚くお礼申し上げます。
私たち家族にとってかけがえのない母は、平成27年8月18日、享年96(歳)で安らかに浄土へと旅立ちました。
母の死に臨んで比較的冷静に対応できましたのは96歳という年齢もさることながら、11年前に脳梗塞を患い、その後車いすの生活があり、ここ数年は少しずつ認知症が進むという、いわば生命の階段を一段ずつ降りて行ったからだと思います。
人は一度は死ぬる運命にあります。母が痛みもなく眠るようにあの世に逝けたことは、残された者にとっては一番の救いです。最近よく「こんな小さい体で、こんなに長生きして申し訳ない」とか、「子供たちに迷惑をかけずに済んだ。これもお父さんのお陰。いい子、いい嫁さん、いい孫に恵まれて、何の心残りもない」と話していました。尊厳死という言葉は使いませんでしたが、いわゆる延命治療はしてほしくないと何度も話していましたので、本望が遂げられたと感じています。
母は大正9年に揖宿郡の小さな半農半漁の村で生まれ、昭和、平成という時代をたくましく生きぬいてきました。戦前に鹿児島市立女子興業を卒業後に教職として働いていた時に、同じ教職の父と結婚しました。母の言葉を借りれば「勉強しやすい環境を作り、いい習慣をつけさせる」という躾けで子供たち4人を育ててくれました。父が61歳で急逝した後はそれなりの苦労はあったはずですが、人前ではその苦労など一切見せずに、いつどんな時にも前向きに、おおらかに、ほがらかに、気丈に生きた母でした。
子どもたちがそれぞれ独立してからは、私たちを育てた原良町で一人暮らしをしていたのですが、弟の開業を機に出水市に移転し、心優しい弟夫妻や気心のあった家政婦さんに囲まれて、豊かな余生を送ることができました。さつきの鉢植えを楽しみ、書道に精進し、グラウンドゴルフで汗を流していました。
最期の生活の場となった有料老人ホームいずみと、看取っていただいた出水総合医療センターの皆さんの、親身の介護と医療には深甚の感謝の気持ちでいっぱいです。
皆さまにはいつもご厚情を賜り、実り多き人生を全うさせていただいた母に代わり、家族一同、心より感謝申し上げます。
略儀ながら書状をもって厚くお礼申し上げます。
