井形先生を囲む会(後)(2015/09/16)
さて「囲む会」であるが、能を10分ほどガラス窓越しに観たのち後、余興としてスマートな可愛い芸子さんとの野球拳(1924年10月、伊予鉄道電気野球部が高松市で高商クラブとの野球の試合を行なったが、0-6で敗れた。この試合後、旅館で行われた対戦相手との夜の懇親会における宴会芸で、昼の敵を取るべく披露した演技が野球拳の始まりとされる)があり、私も指名されたがあえなく敗れてお酒を飲むことになった。
そして各人の近況報告となり、例年のように卒業順の報告になった。これも例年のことだが最初の人たちが気合が入り過ぎて時間をオーバーして、後半の若い先生方は一口だけの報告になってしまった。永松先生も80歳になられたということだが、お得意の手品を披露された。こちらも腕は全く衰えずに、アシスタントとして登場した髙嶋教授のお子さんも目を丸くしながら喜んでいた。
来年は井形先生の米寿のお祝いもかねて鹿児島市で開催することが決まり、二次会場に移動した。
翌日、東横インに宿泊していた浜田先生と中里先生と落ち合い、県庁近くの「坂の上の雲ミュージアム」を見学した。地下1階、地上4階建ての建物で、みるからに斬新の外観だと思ったら、建築家・安藤忠雄氏による設計のもととわかった。館内の各階はひと続きのスロープで結ばれ、来館者はゆっくりと歩き、考えることができる空間となっている。
ミュージアムの目的に「松山をより魅力的なまちにする諸活動の中核的な役割をはたすことにある。より魅力的なまちとは、住み心地がよく、さまざまな発見を楽しめるところを意味する。豊かな水と緑にいろどられたまちなかをゆったりと散策でき、ゆっくりとくつろいだ至福の時間を満喫できれば、まちの魅力はさらに増すだろう」という思惑は、見事にこのミュージアムで発揮されていると感じた。
「坂の上の雲は」は正岡子規、秋山好古、真之の松山出身の三人の主人公を中心としながら、日本における近代国家の形成をおおきな時代の流れのなかでえがいているが、このミュージアムもそのような意図で構成されており、「産経新聞(夕刊)」の1968(昭和43)年4月22日から1972(昭和47)年8月4日にかけて、4年半にわたる「坂の上の雲」の連載が元となっており、挿絵もすべて展示されている。下高原健二さんという画家の作品で、「鹿児島にも下高原とか上高原という苗字は多いよな」とみんなで話しながら挿絵の前を通り過ぎたが、やはり鹿児島県の出身だと後で分かった。
中里先生が「このつくりは認知症や脳卒中患者のリハビリにもよさそうですね」と言っていたが、「的確な指摘」と私も思った。
ミュージアムを出て、道路向かいの三越の地下で、一六タルトをお土産に買った。タルトは松山のかるかん饅頭のようなもので、一六が明石屋に相当するようである。リムジンバスで松山空港に着いたが、福岡行の小型機には、納、皆内ご夫妻も一緒だった。この飛行機、行きはほとんど揺れなかったが帰りは相当に揺れて、やはり小型機はいやだなあと思うことだった。
家に帰りついてバッグを開けると、何と「かちゃかちゃ(リモコン)」が出てきた。何気なくか、弾みにかわからないが私のバッグの中に入り込んでしまっており、紛れもなく「にぎたつ会館」の部屋のものである。早速電話して詫びると、「部屋のリモコンがないという連絡はきております」ということだった。翌日、秘書の山元さんに頼んで送ってもらった。
そして各人の近況報告となり、例年のように卒業順の報告になった。これも例年のことだが最初の人たちが気合が入り過ぎて時間をオーバーして、後半の若い先生方は一口だけの報告になってしまった。永松先生も80歳になられたということだが、お得意の手品を披露された。こちらも腕は全く衰えずに、アシスタントとして登場した髙嶋教授のお子さんも目を丸くしながら喜んでいた。
来年は井形先生の米寿のお祝いもかねて鹿児島市で開催することが決まり、二次会場に移動した。
翌日、東横インに宿泊していた浜田先生と中里先生と落ち合い、県庁近くの「坂の上の雲ミュージアム」を見学した。地下1階、地上4階建ての建物で、みるからに斬新の外観だと思ったら、建築家・安藤忠雄氏による設計のもととわかった。館内の各階はひと続きのスロープで結ばれ、来館者はゆっくりと歩き、考えることができる空間となっている。
ミュージアムの目的に「松山をより魅力的なまちにする諸活動の中核的な役割をはたすことにある。より魅力的なまちとは、住み心地がよく、さまざまな発見を楽しめるところを意味する。豊かな水と緑にいろどられたまちなかをゆったりと散策でき、ゆっくりとくつろいだ至福の時間を満喫できれば、まちの魅力はさらに増すだろう」という思惑は、見事にこのミュージアムで発揮されていると感じた。
「坂の上の雲は」は正岡子規、秋山好古、真之の松山出身の三人の主人公を中心としながら、日本における近代国家の形成をおおきな時代の流れのなかでえがいているが、このミュージアムもそのような意図で構成されており、「産経新聞(夕刊)」の1968(昭和43)年4月22日から1972(昭和47)年8月4日にかけて、4年半にわたる「坂の上の雲」の連載が元となっており、挿絵もすべて展示されている。下高原健二さんという画家の作品で、「鹿児島にも下高原とか上高原という苗字は多いよな」とみんなで話しながら挿絵の前を通り過ぎたが、やはり鹿児島県の出身だと後で分かった。
中里先生が「このつくりは認知症や脳卒中患者のリハビリにもよさそうですね」と言っていたが、「的確な指摘」と私も思った。
ミュージアムを出て、道路向かいの三越の地下で、一六タルトをお土産に買った。タルトは松山のかるかん饅頭のようなもので、一六が明石屋に相当するようである。リムジンバスで松山空港に着いたが、福岡行の小型機には、納、皆内ご夫妻も一緒だった。この飛行機、行きはほとんど揺れなかったが帰りは相当に揺れて、やはり小型機はいやだなあと思うことだった。
家に帰りついてバッグを開けると、何と「かちゃかちゃ(リモコン)」が出てきた。何気なくか、弾みにかわからないが私のバッグの中に入り込んでしまっており、紛れもなく「にぎたつ会館」の部屋のものである。早速電話して詫びると、「部屋のリモコンがないという連絡はきております」ということだった。翌日、秘書の山元さんに頼んで送ってもらった。
