コラージュ療法(2)(2015/11/10)
まず西村君であるが、コラージュの研究で博士号まで取得した。
「コラージュ」と言葉を知っている人は少ないだろうが、フランス語で「貼りつける」という意味だそうである。雑誌やパンフレットなどから自分の気に入った写真や絵、イラストを切り抜いて、画用紙の上に好きなように貼って、一つの作品に仕上げていくものである。南九州病院では外来横の8病棟への廊下の壁に、重症児の患者さんのコラージュが時々貼られていた。日本ではこのコラージュが1980年代の終わりごろからクライエント(患者)と心理療法家との間の「媒体」として利用されるようになったという。同じような媒体に「箱庭」もあるが、低学年はまだしも中学ともなると箱庭で遊ぶことを恥ずかしがったりする子供も多く、そのためにコラージュ療法が取り入れられることになったそうである。
彼は1976年に大学を卒業して、初めての職場が南九州病院の筋ジストロフィー病棟であった。南九州病院で働くことになったとき、当時の上司(前の市医師会副会長の今村先生かと思う)から「なんでも好きなようにして結構です」と言われたことが、仕事をするうえで大変にあり難かったという。当時の筋ジス病棟には「頑張って治療したら治るよ」と言われて、親元を離れて入院した小学生が多数生活していた。西村先生もまだ20歳代の青年であり、毎日の仕事が楽しく、お兄さん的な役割だったようだ。夜も消灯の9時頃まで子どもたちと遊んだり、本を読んであげていたという。休日は県内各地を家庭訪問し、まさに心身ともに筋ジス療養に「のめり込んでいった」という。
あの頃の筋ジス病棟は、患者にとっては生活の場、教育の場、そして医療の場であった。看護師は母親の役割も果たしていた。ある医療相談で、今は亡きT君のおばあちゃんの言った言葉が忘れられない。看護師が「しつけができていない」という発言に、「うちの孫は5歳の頃から入院しております。その後ずっと病院に入院しておりますので、しつけの責任は病院です」と言われて二の句が告げなかったという。
またあるとき、県知事が訪問したことがあった。西村先生が子どもたちを壁の前に立たせて膝をストレッチしていたら、「今からラグビーの練習ですか」と声をかけられた。当時の子どもたちは頭部の保護のために「ヘッドサポーター」をしていたので、知識のない知事が誤解するのはやむを得まい。カズユキが「ラグビーができたら入院するかよ!と怒ってねえ」との言葉に私も大笑いした。
西村君は正義感が強く能力も非常に高かったので、自由奔放に好きな仕事が出来たものと思われる。当時は指導員の仕事の内容も定まっておらず、好き勝手に自分のしたいようにできた「いい時代」ともいえる。また重症児から筋ジストロフィー、難病までと年齢も異なるさまざまな病気の患者に係ることができたので、その後、臨床心理の仕事をするようになってから、「こわいものはない」という自信にもつながったということだった。1983年からは重症児病棟で働くことになったが、当時動く重症児がタイヤなどに縛り付けられている現実を見て衝撃を受けたという。そこで「全てを自由にしてあげたい」と病棟のスタッフと話しあいながら、その実現のためにさまざまな工夫をしていく。
「コラージュ」と言葉を知っている人は少ないだろうが、フランス語で「貼りつける」という意味だそうである。雑誌やパンフレットなどから自分の気に入った写真や絵、イラストを切り抜いて、画用紙の上に好きなように貼って、一つの作品に仕上げていくものである。南九州病院では外来横の8病棟への廊下の壁に、重症児の患者さんのコラージュが時々貼られていた。日本ではこのコラージュが1980年代の終わりごろからクライエント(患者)と心理療法家との間の「媒体」として利用されるようになったという。同じような媒体に「箱庭」もあるが、低学年はまだしも中学ともなると箱庭で遊ぶことを恥ずかしがったりする子供も多く、そのためにコラージュ療法が取り入れられることになったそうである。
彼は1976年に大学を卒業して、初めての職場が南九州病院の筋ジストロフィー病棟であった。南九州病院で働くことになったとき、当時の上司(前の市医師会副会長の今村先生かと思う)から「なんでも好きなようにして結構です」と言われたことが、仕事をするうえで大変にあり難かったという。当時の筋ジス病棟には「頑張って治療したら治るよ」と言われて、親元を離れて入院した小学生が多数生活していた。西村先生もまだ20歳代の青年であり、毎日の仕事が楽しく、お兄さん的な役割だったようだ。夜も消灯の9時頃まで子どもたちと遊んだり、本を読んであげていたという。休日は県内各地を家庭訪問し、まさに心身ともに筋ジス療養に「のめり込んでいった」という。
あの頃の筋ジス病棟は、患者にとっては生活の場、教育の場、そして医療の場であった。看護師は母親の役割も果たしていた。ある医療相談で、今は亡きT君のおばあちゃんの言った言葉が忘れられない。看護師が「しつけができていない」という発言に、「うちの孫は5歳の頃から入院しております。その後ずっと病院に入院しておりますので、しつけの責任は病院です」と言われて二の句が告げなかったという。
またあるとき、県知事が訪問したことがあった。西村先生が子どもたちを壁の前に立たせて膝をストレッチしていたら、「今からラグビーの練習ですか」と声をかけられた。当時の子どもたちは頭部の保護のために「ヘッドサポーター」をしていたので、知識のない知事が誤解するのはやむを得まい。カズユキが「ラグビーができたら入院するかよ!と怒ってねえ」との言葉に私も大笑いした。
西村君は正義感が強く能力も非常に高かったので、自由奔放に好きな仕事が出来たものと思われる。当時は指導員の仕事の内容も定まっておらず、好き勝手に自分のしたいようにできた「いい時代」ともいえる。また重症児から筋ジストロフィー、難病までと年齢も異なるさまざまな病気の患者に係ることができたので、その後、臨床心理の仕事をするようになってから、「こわいものはない」という自信にもつながったということだった。1983年からは重症児病棟で働くことになったが、当時動く重症児がタイヤなどに縛り付けられている現実を見て衝撃を受けたという。そこで「全てを自由にしてあげたい」と病棟のスタッフと話しあいながら、その実現のためにさまざまな工夫をしていく。