学会発表今昔(2016/05/27)
私もこれまで何度も学会発表を経験したし、また多くの学会発表を聞く機会があった。内容は別にして、「うまい発表」とは決められた時間内に参加者によくわかるようにメリハリを付けてプレゼンできることである。正直なところ、私は学会発表は得意ではなかった。
まず学会発表の場合、時間に制約がある。一般的には自分の話したい分量からすると短く設定されることが多い。そのため時間をオーバーする人が多いが、普通の学会での発表では時間を超過しないことが重要である。人間どうしても欲張りになり、あれもこれもとスライドの枚数が増えすぎて、失敗することが多い。学会の運営や座長の側から考えると、時間超過になるとどこかで辻褄を合わせなくてはならなくなり、結果的には他人様に迷惑をかけることになる。
次に発表スタイルであるが、原稿を棒読みした方がいいのか、ポスターを指しながら発表した方がいいのかについては聞く方からすれば後者の方がわかりやすい。前国立精神・神経センターの杉田先生などは、原稿を見ることなく立て板に水を流すがごとく流暢に発表されていた。その弟子の今は亡き荒畑先生(留学時の親友)も同様に能弁だったが、東大では伝統的に原稿なしで発表することが慣例になっているということを聞いたことがある。ところがアメリカで私のボスだったエンゲル先生は、講演では自ら書かれた原稿を読みながら発表されるというスタイルだった。一言も間違ってはいけないという、厳格な気質の表れだったのだろうか。
次に内容であるが、時間が取れれば最初に全体の要約をしてくれたら、聞く方はわかりやすい。よく方法は「図表の通りです」と、飛ばす発表が多い。ただ方法はある程度頭に入れておかなければ、聞く方からすれば結果だけ聞いても「ちんぷんかんぷん」である。先のエンゲル教授は、論文で最も重要な部分は「方法」であるとよく言われていた。全世界から多数の別刷りが送られてきていたが、まず「方法」を読んで、おかしいと思ったらためらわずにちり箱に投げ捨てていた。確かに「方法」に問題があったら、「結果や考察」を読むのも時間の無駄というものである。
私も若い時分には、発表後に質問が来るのではないかとドキドキしていた。質問がなくて壇上から降りる時には、ホッとしたことを思い出す。ただよくよく考えると、質問の多い発表は聴衆によくわかって、興味が持てたから質問するわけである。質問がないということは無視されたということかも知れない。
アメリカの学会では、質問者はまず自分の意見を蕩々と述べた後に、肝腎の質問に入るのが普通である。そのため相手の質問の内容がわからず、壇上でうろたえたこともあったが、今となっては懐かしい思い出である。
先日の神戸での神経学会では、発表の半分は全て英語で発表し、質問のやり取りも英語になっていた。世の中もずいぶん変わったものである。
まず学会発表の場合、時間に制約がある。一般的には自分の話したい分量からすると短く設定されることが多い。そのため時間をオーバーする人が多いが、普通の学会での発表では時間を超過しないことが重要である。人間どうしても欲張りになり、あれもこれもとスライドの枚数が増えすぎて、失敗することが多い。学会の運営や座長の側から考えると、時間超過になるとどこかで辻褄を合わせなくてはならなくなり、結果的には他人様に迷惑をかけることになる。
次に発表スタイルであるが、原稿を棒読みした方がいいのか、ポスターを指しながら発表した方がいいのかについては聞く方からすれば後者の方がわかりやすい。前国立精神・神経センターの杉田先生などは、原稿を見ることなく立て板に水を流すがごとく流暢に発表されていた。その弟子の今は亡き荒畑先生(留学時の親友)も同様に能弁だったが、東大では伝統的に原稿なしで発表することが慣例になっているということを聞いたことがある。ところがアメリカで私のボスだったエンゲル先生は、講演では自ら書かれた原稿を読みながら発表されるというスタイルだった。一言も間違ってはいけないという、厳格な気質の表れだったのだろうか。
次に内容であるが、時間が取れれば最初に全体の要約をしてくれたら、聞く方はわかりやすい。よく方法は「図表の通りです」と、飛ばす発表が多い。ただ方法はある程度頭に入れておかなければ、聞く方からすれば結果だけ聞いても「ちんぷんかんぷん」である。先のエンゲル教授は、論文で最も重要な部分は「方法」であるとよく言われていた。全世界から多数の別刷りが送られてきていたが、まず「方法」を読んで、おかしいと思ったらためらわずにちり箱に投げ捨てていた。確かに「方法」に問題があったら、「結果や考察」を読むのも時間の無駄というものである。
私も若い時分には、発表後に質問が来るのではないかとドキドキしていた。質問がなくて壇上から降りる時には、ホッとしたことを思い出す。ただよくよく考えると、質問の多い発表は聴衆によくわかって、興味が持てたから質問するわけである。質問がないということは無視されたということかも知れない。
アメリカの学会では、質問者はまず自分の意見を蕩々と述べた後に、肝腎の質問に入るのが普通である。そのため相手の質問の内容がわからず、壇上でうろたえたこともあったが、今となっては懐かしい思い出である。
先日の神戸での神経学会では、発表の半分は全て英語で発表し、質問のやり取りも英語になっていた。世の中もずいぶん変わったものである。
