アジサイの季節(2016/06/21)
南風病院の6階の病室で小さな花瓶に活けられた一輪のアジサイの花を眺めながら、「病気になって、この花を3回も見ることができようとは思いもしなかった。本当に幸せ者だ」と、しみじみと話していた義母のことを思い出している。
義母が亡くなったのは平成24年6月21日だったので、今日は祥月命日(しょうつきめいにち)にあたる。昨年は実母が亡くなり、とうとう4人の父母ともあの世に逝ってしまった。何か大きな問題が生じると、毎朝仏壇の4人の遺影に心を込めて「安穏」をお願いしている。いくら科学が進歩しても、最後には「神頼み」ということになる。
義母は特に大きな病気もなく幸せな老後を過ごしていたが、平成22年に検診のつもりで胸の写真を撮ってみたら、胸水が溜まり進行した肺がんであることが判った。落ち込むだろうなという周囲の心配をよそに、本人はいつもと変わらぬ日常に、周りの人はびっくりしたものである。
呼吸器科の山口部長にお願いしたが、イレッサが奏功して胸水は瞬く間に消失し、一年半余り健康な生活を取り戻すことができた。毎朝「イレッサ様、山口先生様、仏様、ありがとうございます、とお礼を言った後で一錠頂くんですよ」と、笑いながらよく話していた。最終的にはがんが悪化して、緩和ケア棟で息を引き取った。家内からは「一番好きだった人(私)に手を取られて、お母さんも幸せもんだね」と言われた。
義母はよく「和顔施」という言葉を使い、そうありたいといつも話していた。仏教用語であるが、和顔とは笑顔と言う意味で、施は字の通りほどこすことである。「私の名前は恵美子で、笑み子なのよ」と自慢していたが、文字通り、和顔施を実践した人生だったといえる。鹿児島県の衛生部長も歴任された内山裕先生から頂いたメールには「薩摩の女、そんな覚悟がおありだったような気がします」と書かれていたが、芯が強く優しい薩摩の女性の典型だったと思う。
400年続く焼酎の醸造元の長女として生まれたが、4歳の時に父と死に別れ、決して順風満帆の人生ではなかったかと思われる。それでもどんなときにも運命をそのまま受け入れ、無理をすることなくいつも自然体で、他の人のことを思い、人に愛され、爽やかな印象を残して永久の旅への85年だった。
私との縁はもちろん家内と結婚してからのことで、かれこれ38年近くになるのだろうか。この間、一度として気に障るようなことを言われたり、不愉快に感じたりしたことはなかった。私の書くものの一番の愛読者で、何冊も本を出版できたのも母の金銭面での援助のお蔭でもある。また毎朝のランも一月ごとに渡しては読んでもらっていたので、この年の6月分は天国で読んでもらうようにと、棺の中に納めてもらった。
週末には昼食を一緒に食べることを習慣にしていたので、今でも東郵便局の前を車で通り過ぎる時には、「ここの信号機の角に立っていた」ことを思い出す。今でも「ヒデトシさん」と声を掛けられそうである。
義母が亡くなったのは平成24年6月21日だったので、今日は祥月命日(しょうつきめいにち)にあたる。昨年は実母が亡くなり、とうとう4人の父母ともあの世に逝ってしまった。何か大きな問題が生じると、毎朝仏壇の4人の遺影に心を込めて「安穏」をお願いしている。いくら科学が進歩しても、最後には「神頼み」ということになる。
義母は特に大きな病気もなく幸せな老後を過ごしていたが、平成22年に検診のつもりで胸の写真を撮ってみたら、胸水が溜まり進行した肺がんであることが判った。落ち込むだろうなという周囲の心配をよそに、本人はいつもと変わらぬ日常に、周りの人はびっくりしたものである。
呼吸器科の山口部長にお願いしたが、イレッサが奏功して胸水は瞬く間に消失し、一年半余り健康な生活を取り戻すことができた。毎朝「イレッサ様、山口先生様、仏様、ありがとうございます、とお礼を言った後で一錠頂くんですよ」と、笑いながらよく話していた。最終的にはがんが悪化して、緩和ケア棟で息を引き取った。家内からは「一番好きだった人(私)に手を取られて、お母さんも幸せもんだね」と言われた。
義母はよく「和顔施」という言葉を使い、そうありたいといつも話していた。仏教用語であるが、和顔とは笑顔と言う意味で、施は字の通りほどこすことである。「私の名前は恵美子で、笑み子なのよ」と自慢していたが、文字通り、和顔施を実践した人生だったといえる。鹿児島県の衛生部長も歴任された内山裕先生から頂いたメールには「薩摩の女、そんな覚悟がおありだったような気がします」と書かれていたが、芯が強く優しい薩摩の女性の典型だったと思う。
400年続く焼酎の醸造元の長女として生まれたが、4歳の時に父と死に別れ、決して順風満帆の人生ではなかったかと思われる。それでもどんなときにも運命をそのまま受け入れ、無理をすることなくいつも自然体で、他の人のことを思い、人に愛され、爽やかな印象を残して永久の旅への85年だった。
私との縁はもちろん家内と結婚してからのことで、かれこれ38年近くになるのだろうか。この間、一度として気に障るようなことを言われたり、不愉快に感じたりしたことはなかった。私の書くものの一番の愛読者で、何冊も本を出版できたのも母の金銭面での援助のお蔭でもある。また毎朝のランも一月ごとに渡しては読んでもらっていたので、この年の6月分は天国で読んでもらうようにと、棺の中に納めてもらった。
週末には昼食を一緒に食べることを習慣にしていたので、今でも東郵便局の前を車で通り過ぎる時には、「ここの信号機の角に立っていた」ことを思い出す。今でも「ヒデトシさん」と声を掛けられそうである。
