Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

緩和ケア研究会から厚生科学審議会に(4)(2017/02/21) 

氏家先生はまず、終末期に関する過去の事件(名古屋安楽死事件、東海大学病院安楽死事件、川崎協同病院事件)と射水市民病院事件などを挙げ、「医療の不開始、中止、安楽死」について述べられた。この中で、積極的安楽死は法的にも倫理的にも「×」であるが、治療の中止(消極的安楽死)についてはケースバイケースであり、司法の判断も場合(きちんとした条件のもとでは)によっては、認められるのではないだろうかということだった。
         ただこの問題は現在でも賛否両論に分かれており、司法の判断も明確とはいえない。氏家先生も講演翌日のメールで、「本人の治療中断の意思があり、家族の了解、医療者の判断でやめられることを伝えたつもりです。ただし手続きを踏むことが重要で、それをしなければ問題になるかもしれません。また、中断の方法は、患者、家族、さらには医療者に対して辛い思いをさせないように、行うことが必要になります」と書かれていた。
         例えば川崎協同病院事件(1998年)での第一審の判決の論理は次のようになっている。ここの部分は、氏家先生のスライドから頂いたものであるが、裁判官の判決も回りくどくていねいに書かれている。それほど微妙で難しい問題を含んでいる。
         1) 治療中止は、患者の自己決定の尊重と医学的判断に基づく治療義務の限界を根拠として認められる。
         2) 終末期における患者の自己決定の尊重は、自殺や死ぬ権利を認めるというものではなく、あくまで人間の尊厳、幸福追求権の発露として、各人が人間存在としての自己の生き方、生き様を自分で決め、それを実行してこれを貫徹し、全うする結果、最後の生き方、すなわち死の迎え方を自分で決めることができるということのいわば反射的なもの。
         3) 自己決定には、回復の見込みがなく死が目前に迫っていること、それを患者が正確に理解し判断能力を保持しているということが不可欠の前提。回復不能でその死期が切迫していることについては、医学的に行うべき治療や検査等を尽くし、他の医師の意見等も徴して確定的な診断がなされるべきであって、あくまで「疑わしきは生命の利益に」という原則のもとに慎重な判断。
         4) 自己決定の前提として十分な情報(病状、考えられる治療・対処法、死期の見通し等)が提供され、それについての十分な説明がなされていること、患者の任意かつ真意に基づいた意思の表明をしていることが必要。
         5) 病状の進行、容体の悪化等から、患者本人の任意な自己決定及びその意思の表明や真意の直接の確認ができない場合には、前記自己決定の趣旨にできるだけ沿い、これを尊重できるように、患者の真意を探求していくほかはない。
         6) その真意探求にあたっては、本人の事前の意思が記録化されているもの(リビングウイル等)や同居している家族等、患者の生き方・考え方等をよく知る者による患者の意思の推測等もその確認の有力な手がかりとなる。その探求にもかかわらず真意が不明であれば「疑わしきは生命の利益に」医師は患者の生命保護を優先させ、医学的に最も適応した諸措置を継続すべき。
         7) 医師が可能な限りの適切な治療を尽くし、医学的に有効な治療が限界に達している状況に至れば、患者が望んでいる場合であっても、それが医学的にみて有害あるいは意味がないと判断される治療については、医師においてその治療を続ける義務、あるいは、それを行う法的義務はない。
         8) この際の医師の判断は、あくまで医学的な治療の有効性等に限られるべきである。医師があるべき死の迎え方を患者に助言することは勿論許されるが、それはあくまで参考意見にとどめるべきであって、本人の死に方に関する価値判断を医師が患者に代わって行うことは、相当でない。