Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

難病対策委員会と畠山さんを偲ぶ会(前)(2017/02/08) 

寒さも少し緩んだ1月27日、二つの目的で上京することになった。公的には13時から16時までの難病対策委員会で、私的には18時から畠山さんを偲ぶ会を催すことになった。
         偲ぶ会参加者に喜ばれる「げたん歯」を空港売店で買った後、ロビーで麻酔科の上村教授に出会った。ちょっと雑談をした後に搭乗機に乗り込んだが、先生は前の方で、私の座席は最後尾の次の窓側の席である。
         飛行機は富士山が雲の上に見えるころまでは安定した気流の中で順調に飛行していたが、房総半島上空では強い風に煽られて激しく揺れた。おまけに羽田空港の混雑のために上空に20分ほど待機となった。運の悪い事に着陸後、駐機場の変更もあり、結果的には40分ほど遅れてしまった。急いで、今夜泊まる予定の羽田東急ホテルに荷物を預けて、空港売店でサンドイッチを買った。時間の余裕があったら、有楽町の吉野家ででも昼食を摂ろうかと算段していたがその時間はなくなった。
         12時45分頃に厚労省の3階の会場に着くと、委員の西澤先生から「畠山さんには私もお世話になりました」と言われる。患者さんのコミュニケーション機器のことで相談したことがあったという。13時丁度に会議は始まったが、今日の議題は「難病医療支援ネットワークの在り方」と「難病の遺伝子関連検査の実施体制等の在り方について」である。
         熱心な討議があって、会議が16時ちょっと前に終わった。ホテルに引き返すにはちょっと時間がないので、そのまま麻布十番のオリーブに行くことにした。この間、南風病院に電話したが、佐久総合病院に崎山先生との打ち合わせに行かれていた江藤さんから簡単な報告を受け、また秘書の鳥居さんから「白石病院院長の原田先生が亡くなられた」という訃報の報告を受けた。原田先生は水俣病研究で有名な原田正純先生の弟さんであるが、私は先生が保健所所長時代にちょっと親交があった。
         オリーブに着くと、マスターの小野さんは準備に忙しそうなので、私はカウンターで新聞を読みながら時間を費やした。今夕に届くように時間指定していたお土産用の「薩摩揚げ」も届いていた。18時前に岡本さん、そして薄さんが到着したが、小澤さんは19時からと勘違いされて30分ほど遅れて到着した。
         岡本さんが表紙に1998年10月(この年の8月に亡くなっている)と書かれている轟木敏秀追悼文集や、新燃岳登山の写真などをたくさん持ってきてくれていた。丁度20年近く前のことで、その頃はみんなまだ若く、特に岡本さんなど黒髪がふさふさである。今夜出席できなかった戸島さんは今も変わらない若さである。畠山さんももちろん若い。懐かしい三宅さん(宮崎の理髪屋さん)も写真に写っているが、今頃どうされているだろうか。
         当時、敏秀は好奇心の固まりで、相手の迷惑などお構いなしに欲しいものを要求していた。おそらく畠山さんもある意味では犠牲者の一人で、敏秀は畠山さんの優しい性格をちゃんと見抜いていたのかも知れない。「普通の患者さんは、スイッチなど工夫したものを届けると、ありがとうございました、で終わってします。ところが敏秀さんは、ここが不便だとか、ここが足りないと率直に言われるので、私にはかえって有り難いのです」とよく言われていた。