井形昭弘先生を偲ぶ会(2018/09/28)
井形先生が亡くなられたのは2016年8月12日の深夜である。米寿を目前に控えて、78歳であった。名古屋学芸大学の現職学長で、いつもの口癖通り、PPK(ぴんぴんころり)を自ら実行された。おそらく就寝時も枕元にスマートフォンを置かれていて、心臓に異変を感じられて救急車を呼ばれたのではないだろうか。最近、高齢者の「孤独死」が新聞紙上をにぎわせている。個人的にはそれでも何ら構わないと思うのだが、家族には一抹の寂しさと後悔の気持ちが残るかも知れない。井形先生のことだから、そんなことも考えておられたのかも知れない。
2016年の9月3日に予定していた「米寿をお祝いする会」ができなかったので、翌年の2017年1月22日に「井形昭弘先生を偲ぶ会」が、城山観光ホテルのエメラルドホールで行われた。そして同年、名古屋でお墓参りが行われ、今年の「偲ぶ会」につながったのである。
今年度の「偲ぶ会」は、長年、医局長を務めておられた宇根先生が事務方を引き受けてくれて、9月23日、午後6時半からホテル・レクストンの「竹千代本館」で行われた。38人が参加して、しめやかに、そして和気あいあいとした雰囲気の中で執り行われた。
まず黙祷が行われ、挨拶で永松先生(当時3内科発足時の助教授として井形先生を支えられた)が「長い黙祷時間で、ロンベルグ徴候(閉足立位時に開眼から閉眼することによって 開眼時よりも身体の動揺が大きくなり最後には転倒に至る現象)の検査を行わされているようで、転倒するといけないので開脚していました」と冗談を言われていたが、私の経験したもっとも長い黙祷時間だった。そのために、さまざまな思い出を整理するのに役立った。
納先生のご挨拶に次いで井形先生の御子息の弘様、厚子さまの挨拶が行われた。弘様は近々、トヨタ自動車からピッツバーグに派遣されて、自動運転などトヨタの最新技術を率いる部署に異動されるということだった。そのあと、永松先生のご挨拶と献杯の御発声が行われ歓談となった。
頃合いを見て、抽選順に一人2分程度のスピーチが行われた。過去の「囲む会」では入局の古い順にスピーチが行われていたが、時間が守られずに最後の方は尻切れトンボになっていた教訓から宇根先生が抽選にしたものと解釈される。
それぞれの近況報告や井形先生との思い出を語られた。私は「今でも、困った時など井形先生に相談したいのですが、・・・仕方なく机の前に置かれているにこやかに笑っておられる肖像写真に話しかけています」と、南風病院の近くにある明治維新前後の偉人の誕生地(五代友厚)やお墓(長澤鼎)をスライドで紹介した。
9時過ぎに集合写真を撮り、新名先生の閉会の辞でお開きとなった。
2016年の9月3日に予定していた「米寿をお祝いする会」ができなかったので、翌年の2017年1月22日に「井形昭弘先生を偲ぶ会」が、城山観光ホテルのエメラルドホールで行われた。そして同年、名古屋でお墓参りが行われ、今年の「偲ぶ会」につながったのである。
今年度の「偲ぶ会」は、長年、医局長を務めておられた宇根先生が事務方を引き受けてくれて、9月23日、午後6時半からホテル・レクストンの「竹千代本館」で行われた。38人が参加して、しめやかに、そして和気あいあいとした雰囲気の中で執り行われた。
まず黙祷が行われ、挨拶で永松先生(当時3内科発足時の助教授として井形先生を支えられた)が「長い黙祷時間で、ロンベルグ徴候(閉足立位時に開眼から閉眼することによって 開眼時よりも身体の動揺が大きくなり最後には転倒に至る現象)の検査を行わされているようで、転倒するといけないので開脚していました」と冗談を言われていたが、私の経験したもっとも長い黙祷時間だった。そのために、さまざまな思い出を整理するのに役立った。
納先生のご挨拶に次いで井形先生の御子息の弘様、厚子さまの挨拶が行われた。弘様は近々、トヨタ自動車からピッツバーグに派遣されて、自動運転などトヨタの最新技術を率いる部署に異動されるということだった。そのあと、永松先生のご挨拶と献杯の御発声が行われ歓談となった。
頃合いを見て、抽選順に一人2分程度のスピーチが行われた。過去の「囲む会」では入局の古い順にスピーチが行われていたが、時間が守られずに最後の方は尻切れトンボになっていた教訓から宇根先生が抽選にしたものと解釈される。
それぞれの近況報告や井形先生との思い出を語られた。私は「今でも、困った時など井形先生に相談したいのですが、・・・仕方なく机の前に置かれているにこやかに笑っておられる肖像写真に話しかけています」と、南風病院の近くにある明治維新前後の偉人の誕生地(五代友厚)やお墓(長澤鼎)をスライドで紹介した。
9時過ぎに集合写真を撮り、新名先生の閉会の辞でお開きとなった。
