Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

年末年始今昔(後)(2015/01/07) 

ところで、日経の「何でもランキング」では「年末年始の習慣 由来はご存じ?」というものを取り上げていた。いわれや由来について一般の人に調査し、「やっているがいわれは知らない」「勘違いしていた」という人が多かったものをランキングしたものである。
 第一位が「餅入りの雑煮を食べる」、第二位が「お年玉をあげる・もらう」、第三位が「神社参りでは二拝二拍一拝」で、以下、元旦におとそ・お神酒、大みそかに年越しそば、三が日はケンカせず笑顔、初詣は氏神さまからお参りする、などとなっていた。このなかで第三位の神社参りの作法に関して、神様に敬意を表して二拝し、拍手で自分の来たことをお知らせし、最後にお礼の意味を込めて頭を下げるのだという。
 いつものことだが年末年始のころになると、昭和20年代に過ごした田舎での年末年始の出来事を思い出してしまう。
 私の古里は、東シナ海と開聞岳を一望できる広々とした台地の、知覧町に接する(旧)頴娃町の小さな農村である。このわが頴娃町も、市町村合併の波には抗しきれず知覧町、川辺町とともに「南九州市」なる名称になっている。私は小学4年の10歳までその村で暮らしたが、昭和20年代から30年代の初めにかけては、まだ日本のどこも貧しい時代にあった。でもみんなが貧しかったけど、明日は今日よりよくなるだろうという期待の持てた活力に満ちた時代でもあった。
 貧しくても年末年始は格別で、精一杯のご馳走を食べて、新しい服や手袋など買ってもらって、文字通り「特別な日」だった。そしてこの時代、現代に比べて父親らしさが発揮された時代でもあり、幼心に父親の「偉大さ」を実感できたものである。
 私の家では年末になると、庭を清めるためにどこから持ってきたのか白砂が運ばれて庭一面に撒かれた。すると周りの景色が、あたかも雪が降ったように変身し、その上ではしゃいだものである。家の入り口には、手作りの大きな門松が飾られた。これらは全て父親の仕事であり、きれいに飾られていく様子を食い入るように眺めていた。そして29日だったかと思うが、裏山のヒノキの大木の根本に、これも自家製のしめ縄を飾り、コメや塩のお供えをして「山の神」に祈りを奉げたものである。またこの日のために鶏を飼っていて、首を絞め熱湯をかけて解体していく様子を、怖がりながらも「畏敬」の念で見ていたように思う。そして焚き火で砂ずりを焼いてもらって食べた味は、今でも舌のどこかに残っている。この砂ずりは今でもスーパーにいくらでも売っているが、どうも味が違うように感じられてならない。
 31日はラジオで紅白歌番組を聞きながら、トランプやすごろくなどをしながら、やっと12時まで起きていられたものである。そして元旦は雑煮を食べて、隣町の親せきの家に行ってお年玉をもらったり、凧揚げやかるたに興じたものである。
 おそらく我々の世代の多くの人は、似たような経験を持っているのではないだろうか。
 このように昔は父親が「威厳」を示せるような場が、日常の生活にも組み込まれていた。ところが時代とともに、いわゆる祭ごとはなくなり、鶏もスーパーで簡単に調達できるようになった。
 今から15年ほど前の1996年に発刊された「父性の復権(林道義)」のカバーの裏に、次のように書かれている。
 「父の役割は家族を統合し、理念を掲げ、文化を伝え、社会のルールを教えることにある。この役割が失われると子どもは判断の基準、行動の原理を身につける機会を逸してしまう。いじめや不登校が起こり、利己的な人間、無気力な人間が増えるのもこの延長線上にある」。そして、「健全な社会と家族を構築するには、父親の役割、特に父性の健全な権威と権利を復活しなければならない」ことを理路整然と説いている。
 確かに現代は、父親にとっては身をもって子どもに範を示しにくい時代である。