Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

年末年始今昔(前)(2015/01/06) 

中島先生の新書(家族はなぜうまくいかないのか)では、「祖父母の(孫への)役回りは、口は出さずにカネを出し、あくまで親を立ててサポート役に徹するということのようです」と書かれているが、この正月、まさにそのような日々だった。でも帰ってしまうと、さみしさ半分、ホッとする気持ち半分という所である。
 さて2015年、今年の元旦は全国的にも寒波の襲来もあり「初日の出」を迎えることのできた地域は少なかったようである。鹿児島でも時々みぞれ交じりの小雨の舞う曇り空で、桜島も中腹まで冠雪していた。でも城山からは、雲の合間に日の出を見た人もいるようである。私は元旦にもいつものように5時ごろに出勤し、院内向けに「新年を迎えて」を発信し、またいつものようにテレビ体操をした。ただ元旦のテレビ体操だけは全員総出で、さすがに振り袖姿ではなかったもののにぎやかな体操になっていた。いったん家に帰り、山口から帰っていた娘と孫のメイちゃん(1歳)、家内の四人で、近くの照国神社に参拝した。天気のためか、いつものように人出は多くはなかった。その後また病院に引き返して待機当番にもなっていたので病院を一巡したが、幸いにも特に大きな問題はなかったようである。
 2日も、朝はいつものように病院で過ごしたのち、新幹線で出水に向かった。臨時列車ということもあって車内はガラガラに空いていた。出水駅に熊本から車でやってきた息子夫婦と孫のタンゴ君(10か月)が駅前で待ってくれており、一緒に昨年末から母が療養している「出水の里」に向かった。94歳になる母は挨拶などの会話はできるが認知障害が進み、人に対する正確な認知は難しくなってきている。
 3日には朝、山口からやってきた婿の到着を待って、照国神社の鳥居の横にある写真館で写真撮影を行い、昼過ぎに指宿に向かった。写真撮影では孫の二人を一所にフォーカスするのは至難の業で、それでもそこはプロ、うまくあやしながらレンズに収めてくれていた。
 今年の正月は孫たちと一緒にホテルで過ごそうと考えていたので、「指宿ベイテラス」を予約していた。フロントに着くと、伊地知さんという人(営業部部長)から、「お久しぶりです。霧島観光ホテルにいた時に大変お世話になりました。南風病院に移られたこともよく存じております」と名刺を渡された。正確には忘れてしまっていたが、南九州病院時代に、夏の筋ジス療育キャンプや職員の宿泊研修の時の「繋がり」のようである。
 ところでこのホテルは現在ではベイテラスと呼ばれて、新日本科学のメディアポリス(がんの陽子線治療)の施設の一つになっている。できたころはグリーンピア指宿と呼ばれるており、旧年金福祉事業団のグリーンピア(大規模年金保養基地)の13か所の施設の一つであった。何しろ広大な敷地の中にあり、ゲートになっている入場口からフロントまで2.5キロもあるから驚きである。その後民間に売却され、天珠の館と呼ばれていた時代もあった。グリーンピアの時代、天珠の館の時代と何度も宿泊したことがあったが、ベイテラスという名前になってからは初めてである。
 好天にも恵まれ、窓ごしには眼下に指宿市と波光きらめく錦江湾、そして大隅半島の山々の大パノラマを一望できる。正月料金の設定もなくリーズナブルな値段で、館内は飽きるほど無駄に広く、まあまあの満足度のホテルといえる。ただ温泉の清潔さが今一気になった。翌朝、10時前にホテルを出発し、平川にあるレストランのハピーポイントで、有名なハンバーグを食べて解散となった。