Blog前南風病院院長 福永秀敏先生の雑感

拙文を読んでくれて(後)(2016/06/20) 

もうずいぶん前の南日本新聞の記事(2016/05/08)になるが、「デンタルオフィス 本の街院長」の新内秀一さん(65)が顔写真入りで紹介されていた。このコーナーは鹿児島県出身者で、東京などで活躍している人を紹介している。
記事によると、新内さんは鶴丸高校卒業後、東京医科歯科大学歯学部に進学、官庁の診療所に勤務した後、学生時代から親しみ、路地裏まで知っている「本の街」神田神保町に小さな歯科医院を開業して16年になるという。世俗的で常識的な考え方からは飛びぬけた私から見ればうらやましい方で、「好きな洋楽が近くにある」という理由から東京にあこがれ「歯で弾くギター」にも興味をもったという。またいくつかの雑誌にエッセイなども寄稿し、「物書く」歯科医でもあると書かれていた。世知辛い金優先の時代にあって、いい意味での「風流人」を生涯続けられるとはすごい人である。
実は新内さんは私の親友の丸山先生(鹿児島大学教授で、ベルツ賞も貰われた血液凝固学の大家)の義弟にあたり、私がこの記事に気付いて丸山先生にメールをしたのである。しばらくして先生から、次のようなメールを頂いた。新内さんから丸山先生あてのメールを転送してくれたのである。
「親戚以外は知らない人たちだし、会ったことない人だ。ただ何でだかね、福永秀敏て名前には記憶あるよ、たぶん25年か35年くらい前にこの人の書いた文章を読んでいまだに覚えているがよ。人違いかなあ?
筋ジストロフィーの患者さんが死んで、病院を出て行く書き出しがね、抜群にうまくてね、すごく抑えた筆致の情景描写だったはず。たんたんと抑えて、無理しないで書く、むずかしいしところをうまくこなしてたから記憶にあるのかも。南木佳士〈なぎけいし〉て医師で芥川賞とった作家みたいな文体なのよ。会う機会あれば聞いてごらん。俺の記憶ちがいかね?」
南木さんとは恐縮至極であるが、覚えてくれただけでもうれしい。私が平成11年に春苑堂書店のかごしま文庫(56巻)の「難病と生きる」の中の、エッセイ「もっとも健康な少年だった」からではなかろうか。
平成8年6月、梅雨のさなか、漆黒の闇から小粒の雨が間断なく降りしきる。冨満君の亡骸は無言の僚友の見送りを受けながら静かに家路へと向かった。・・・で始まる。
冨満君は筋ジストロフィーで、南九州病院の筋ジス病棟に中学入学と同時に長期入院していた。勝気で利発な子供で、生徒会活動なども熱心で、運動会の応援団長もやっていた。
今この本を読み返してみると、その頃の状況が次のように書かれている。
・・・入院して3ヶ月ほど経った頃、母親が乳がんになり、その年の9月に亡くなってしまった。葬儀から帰ってきた彼は、人前では涙一つ流すことはなかった。父親の話では「私よりしっかりしているので大丈夫だと思います。私には内緒で母親と二人で約束していたようです。『お母さんがいなくなってもしっかりできるね』『いなくなるってどういうこと』『母さんが死んだときのこと』『死んでも泣かない、しっかりする』と約束したそうです」
思い起こせば冨満君が亡くなって20年が経つ。でも私に限らず、当時の彼を知っているスタッフの心の中にはいつまでも生き続けているのではないかと思っている。