11月の3日間第二日(中学同窓会)後(2017/12/05)
さて今回の参加者は男性5人、女性5人で、遠く茨城や神戸、鳥栖からも参加していた。当初の申し込みは15人ほどだったということだが、病気や親の介護などで取りやめになった人もいるらしい。現在の一クラスは30名前後だということだが、我々の頃は50人を超えていた。私は中学の3年間は9期とも級長を務めたが、今思い返してもリーダーシップに優れた級長らしき級長ではなかった。よく言えば「孤高の存在」で、群れることなくマイペースで自分の道を進んでいたように思う。
部屋は相部屋で、今回も吉峰君と一緒である。彼は県庁を退職後にシルバーセンターで働いているという。子どもが二人で孫は4人であるが、一番上は大学生だというから、私の場合と大きな開きがある。
18時から宴会場で古希を祝う懇親会となった。ケーキに7本のロウソクを灯して記念写真に収まった。ところが偶然にも隣が「還暦を祝う城西中学○○組様」となっていたので、酔うほどに還暦組が紛れ込んだりした。60歳以上になると、お互いに顔を見比べながら「10歳くらいは誤差範囲ね」と大笑いになった。
乾杯の音頭は50数年ぶりにこのクラス会に参加した平山君がすることになった。中学時代はおそらく一度も話したこともなかったかも知れないが、50年間の仕事の遍歴など聞きながら、いい人生を歩んできたことがよくわかった。中学を卒業してそのまま海員学校(国立門司海員学校で本科と専修科で5年課程となる)して船乗りになった。あの時代は優秀な学生が、中学を卒業してこのような専門学校に進学したものだったが、おそらく一人と言うことになる。船に乗って20数年、42歳でやっと機関長になったところでお払い箱になったという。その後の転職の苦労話も面白かった。結婚に至る過程は「そんなこともあるのかな」と半信半疑で聴いていた。「本当にいい女房ですので、いつか会わせたい」というからには、真実だということだろう。
21時に一部屋に全員が集まり、ケーキや坂井君が沖エラブ島からわざわざ持ってきてくれたモンキーバナナを食べたり、焼酎を飲みながら24時近くまで昔話に花が咲いた。酔ってしまって話の内容はほとんど忘れてしまったが、村上君が「顔は忘れても、脚の方は今でもよく覚えている」には大笑いした。
翌朝私は6時前に起きて、温泉でひげを剃ったり温泉につかった後、6時半ごろから40分近く、宿の周りを散歩した。こころの宿から海側にしばらく歩くと、白水館の広大に敷地が広がっている。道路沿いに歩いたが、白水館以外の土地は草が伸び放題で、手入れの行き届かない土地が多く、指宿も他の地方都市同様に寂れてきているようである。
7時半から朝食で、9時頃に散会となった。給仕してくれた若い女性も中国人で、そういえばフロントの女性も言葉が中国風だったので、日本の雇用形態も大きく変わってきている。
私は楠元さん(副級長だった)を鹿児島中央駅まで助手席に乗せて、お互いの家族のことなど話題にしながら運転した。彼女のご主人は私の大学の一年先輩で、神戸で内科を開業していたが、現在は息子に譲って悠々自適の生活を送っているようである。
楠元さんとの四方山話で、往路と違ってやはり時間が短く感じられた。
(昨日の健診で、昭和23年2月生まれの女性、あてずっぽに『中学はどこね』と聞いたら、「城西中です」となった。しばしローカルな昔話に)
部屋は相部屋で、今回も吉峰君と一緒である。彼は県庁を退職後にシルバーセンターで働いているという。子どもが二人で孫は4人であるが、一番上は大学生だというから、私の場合と大きな開きがある。
18時から宴会場で古希を祝う懇親会となった。ケーキに7本のロウソクを灯して記念写真に収まった。ところが偶然にも隣が「還暦を祝う城西中学○○組様」となっていたので、酔うほどに還暦組が紛れ込んだりした。60歳以上になると、お互いに顔を見比べながら「10歳くらいは誤差範囲ね」と大笑いになった。
乾杯の音頭は50数年ぶりにこのクラス会に参加した平山君がすることになった。中学時代はおそらく一度も話したこともなかったかも知れないが、50年間の仕事の遍歴など聞きながら、いい人生を歩んできたことがよくわかった。中学を卒業してそのまま海員学校(国立門司海員学校で本科と専修科で5年課程となる)して船乗りになった。あの時代は優秀な学生が、中学を卒業してこのような専門学校に進学したものだったが、おそらく一人と言うことになる。船に乗って20数年、42歳でやっと機関長になったところでお払い箱になったという。その後の転職の苦労話も面白かった。結婚に至る過程は「そんなこともあるのかな」と半信半疑で聴いていた。「本当にいい女房ですので、いつか会わせたい」というからには、真実だということだろう。
21時に一部屋に全員が集まり、ケーキや坂井君が沖エラブ島からわざわざ持ってきてくれたモンキーバナナを食べたり、焼酎を飲みながら24時近くまで昔話に花が咲いた。酔ってしまって話の内容はほとんど忘れてしまったが、村上君が「顔は忘れても、脚の方は今でもよく覚えている」には大笑いした。
翌朝私は6時前に起きて、温泉でひげを剃ったり温泉につかった後、6時半ごろから40分近く、宿の周りを散歩した。こころの宿から海側にしばらく歩くと、白水館の広大に敷地が広がっている。道路沿いに歩いたが、白水館以外の土地は草が伸び放題で、手入れの行き届かない土地が多く、指宿も他の地方都市同様に寂れてきているようである。
7時半から朝食で、9時頃に散会となった。給仕してくれた若い女性も中国人で、そういえばフロントの女性も言葉が中国風だったので、日本の雇用形態も大きく変わってきている。
私は楠元さん(副級長だった)を鹿児島中央駅まで助手席に乗せて、お互いの家族のことなど話題にしながら運転した。彼女のご主人は私の大学の一年先輩で、神戸で内科を開業していたが、現在は息子に譲って悠々自適の生活を送っているようである。
楠元さんとの四方山話で、往路と違ってやはり時間が短く感じられた。
(昨日の健診で、昭和23年2月生まれの女性、あてずっぽに『中学はどこね』と聞いたら、「城西中です」となった。しばしローカルな昔話に)
