歴史の街(5)(2018/06/28)
1867年年末,江戸幕府は倒され,新政府が樹立され、五代は参与の一人に任ぜられる。他に薩摩藩から参与に任ぜられたのは,西郷隆盛,大久保利通,小松帯刀,岩下方平,寺島宗則,町田久成らで,このそうそうたる面々に五代友厚が並んでいた。その後の五代は薩摩藩の多くが歩んだ政治や軍隊のメインストリートではなく、その国際感覚を生かして「商」の道で活躍することになる。
五代はその後、外国事務局の判事に任命され、大阪で働くことになる。大阪での業績として造幣寮(現在の大阪造幣局)の誘致と建設、大阪株式取引所(現在の大阪取引所)の設立、大阪商業講習所(現在の大阪市立大学)の設立にかかわった。
このように五代近代大阪の発展に多大に貢献し、明治18年(1885年),49歳の若さで東京に没した。葬儀は大阪でとりおこなわれ,たくさんの人が参加して大々的な葬列の葬儀が行われたそうである。大阪には5ヶ所に五代の銅像ができていると聞いたことがある。
一方鹿児島には五代友厚銅像は二つある。一つは山形屋の近くの泉公園にある「五代友厚像」と鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」である。
五代友厚の生誕地を訪れた翌日の30日、今度は南洲墓地に行くことにした。病院から歩いて10分、南洲神社の正面の石段を登って行く。鳥居をくぐると正面に、西南戦争で亡くなった2000基を超える墓が整然と並んでいる。西郷の墓は正面にあり、両脇は篠原国幹と桐野利秋の墓である。この日も快晴、さすがに多くの観光客が参拝していた。
五代の生家跡を訪ねてからヶ月ほど後の5月22日の昼休み、長沢鼎の墓を見に行くことにした。実は前日の難病相談・支援センターでの難病相談の時、脊髄小脳変性症の夫と一緒に来られた奥さんの一言を思い出したのである。「長沢鼎の墓が私の家からはよく見えます。南風病院の冷水荘の近くですよ」。
南風病院から冷水峠の方向に5分ほど歩くと、道沿いに「長澤鼎の墓入り口」という白い標識が建っている。そこから石の階段をしばらく登ると墓地が見えてきた。この墓地は福昌寺の末寺の曹洞宗派の興国寺の墓地だったが、廃仏毀釈により廃寺となり広大な墓地だけが残されている。
墓地の入り口の石壁に長澤の案内板が取り付けられている。墓地は二つの尾根に挟まれるように谷状に拡がっており、長澤の墓は墓地のほぼ真ん中の向かって左の尾根の山裾に近い場所に位置している。こじんまりとしたまだ新しい墓の横に、長沢の足跡を紹介する日本語と英語の石碑が建てられている。なぜ新しいかといえば、この墓は親族が米国から遺髪だけをもらって帰って、この墓に収めたのだという。
五代はその後、外国事務局の判事に任命され、大阪で働くことになる。大阪での業績として造幣寮(現在の大阪造幣局)の誘致と建設、大阪株式取引所(現在の大阪取引所)の設立、大阪商業講習所(現在の大阪市立大学)の設立にかかわった。
このように五代近代大阪の発展に多大に貢献し、明治18年(1885年),49歳の若さで東京に没した。葬儀は大阪でとりおこなわれ,たくさんの人が参加して大々的な葬列の葬儀が行われたそうである。大阪には5ヶ所に五代の銅像ができていると聞いたことがある。
一方鹿児島には五代友厚銅像は二つある。一つは山形屋の近くの泉公園にある「五代友厚像」と鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」である。
五代友厚の生誕地を訪れた翌日の30日、今度は南洲墓地に行くことにした。病院から歩いて10分、南洲神社の正面の石段を登って行く。鳥居をくぐると正面に、西南戦争で亡くなった2000基を超える墓が整然と並んでいる。西郷の墓は正面にあり、両脇は篠原国幹と桐野利秋の墓である。この日も快晴、さすがに多くの観光客が参拝していた。
五代の生家跡を訪ねてからヶ月ほど後の5月22日の昼休み、長沢鼎の墓を見に行くことにした。実は前日の難病相談・支援センターでの難病相談の時、脊髄小脳変性症の夫と一緒に来られた奥さんの一言を思い出したのである。「長沢鼎の墓が私の家からはよく見えます。南風病院の冷水荘の近くですよ」。
南風病院から冷水峠の方向に5分ほど歩くと、道沿いに「長澤鼎の墓入り口」という白い標識が建っている。そこから石の階段をしばらく登ると墓地が見えてきた。この墓地は福昌寺の末寺の曹洞宗派の興国寺の墓地だったが、廃仏毀釈により廃寺となり広大な墓地だけが残されている。
墓地の入り口の石壁に長澤の案内板が取り付けられている。墓地は二つの尾根に挟まれるように谷状に拡がっており、長澤の墓は墓地のほぼ真ん中の向かって左の尾根の山裾に近い場所に位置している。こじんまりとしたまだ新しい墓の横に、長沢の足跡を紹介する日本語と英語の石碑が建てられている。なぜ新しいかといえば、この墓は親族が米国から遺髪だけをもらって帰って、この墓に収めたのだという。
