平成から令和の時代に(3)(2019/05/15)
平成の天皇が生まれたのが1933年、美智子妃が翌年の1934年だから、私からすると一回りほど先にお生まれになられたわけだが、ほぼ同じ世代を生きて来られたことになる。ただ両陛下とも小学校時代に戦争を直接体験され、疎開などの経験を持たれている。このことが戦後生まれの私と違って決定的な違いであり、戦争がお二人の心に強烈なインパクトを宿されることになったのではないだろうか。象徴天皇としての在り方を模索していく中で、戦没地の慰霊などにとりわけ熱心に取り組まれたのは、自らの体験があってのことであろうかと推察することである。
よく話題となる「焼け跡闇市派」とは、幼少期と少年期を第二次世界大戦中に過ごした世代で、昭和一桁生まれの永六輔、小沢昭一、野坂昭如、五木寛之氏などである。現在NHKで放映中の朝ドラの「なつぞら」も、そのような時代を描き出している。私のように頭ででしか理解することのない世代と肌身で体験した世代とは、戦争に対する感覚は自ずから異なってくる。戦後生まれの両陛下にとっては、この溝をどのように埋めていかれるかも大きな課題となるだろう。
さて123人の証言のなかで、特に印象に残った一部分を抜粋する。
元朝日新聞記者の佐伯晋さんは「箱根で行われた正田家家族会議」というタイトルで次のように書かれている。佐伯氏は朝日新聞の「お妃取材班」に配属となり、美智子妃の父母から相談も受けるようになっていたということである。
ただ結婚の決め手となった「殺し文句」は最後までわからず仕舞い。判明したのは二十年後、時事通信社の『皇太子同妃殿下ご結婚20年記念写真集』に東宮侍従長の黒木従達氏が美智子さまの言葉として、「度重なる長尾お電話の間、陛下はただの一度もご自身のお立場への苦情をお述べになったことはおありになりませんでした。またどんな時にも皇太子と遊ばしての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐものとはっきり仰せでした」と紹介してからでした。
私は「普通の結婚と違わない幸せを約束します」と電話でおっしゃったと推測していましたが、全く逆だったのです。この言葉は婚約の誓いであると同時に、「結婚後も自分は、皇室の公的責任を第一として優先し、私事はそれに次ぐ」ことを誓っているとも言えます。皇太子さまの責任感、義務感の強さに美智子さんは心打たれ、結婚を約束したのだと私は腑に落ちました。(終)
佐伯さんは記者としての立場を超えて、正田家と親しかったと伝えられている。美智子妃が結婚を何度も固辞しているが、「皇太子さまの責任感、義務感の強さに美智子さんは心打たれ」というくだりは、その後のお二人の行動を振り返ると納得がいく。決して安直な「殺し文句」ではなかったのである。
よく話題となる「焼け跡闇市派」とは、幼少期と少年期を第二次世界大戦中に過ごした世代で、昭和一桁生まれの永六輔、小沢昭一、野坂昭如、五木寛之氏などである。現在NHKで放映中の朝ドラの「なつぞら」も、そのような時代を描き出している。私のように頭ででしか理解することのない世代と肌身で体験した世代とは、戦争に対する感覚は自ずから異なってくる。戦後生まれの両陛下にとっては、この溝をどのように埋めていかれるかも大きな課題となるだろう。
さて123人の証言のなかで、特に印象に残った一部分を抜粋する。
元朝日新聞記者の佐伯晋さんは「箱根で行われた正田家家族会議」というタイトルで次のように書かれている。佐伯氏は朝日新聞の「お妃取材班」に配属となり、美智子妃の父母から相談も受けるようになっていたということである。
ただ結婚の決め手となった「殺し文句」は最後までわからず仕舞い。判明したのは二十年後、時事通信社の『皇太子同妃殿下ご結婚20年記念写真集』に東宮侍従長の黒木従達氏が美智子さまの言葉として、「度重なる長尾お電話の間、陛下はただの一度もご自身のお立場への苦情をお述べになったことはおありになりませんでした。またどんな時にも皇太子と遊ばしての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐものとはっきり仰せでした」と紹介してからでした。
私は「普通の結婚と違わない幸せを約束します」と電話でおっしゃったと推測していましたが、全く逆だったのです。この言葉は婚約の誓いであると同時に、「結婚後も自分は、皇室の公的責任を第一として優先し、私事はそれに次ぐ」ことを誓っているとも言えます。皇太子さまの責任感、義務感の強さに美智子さんは心打たれ、結婚を約束したのだと私は腑に落ちました。(終)
佐伯さんは記者としての立場を超えて、正田家と親しかったと伝えられている。美智子妃が結婚を何度も固辞しているが、「皇太子さまの責任感、義務感の強さに美智子さんは心打たれ」というくだりは、その後のお二人の行動を振り返ると納得がいく。決して安直な「殺し文句」ではなかったのである。
