畏友栗山君の死から(6)(2019/04/18)
(2004年、福井医科大学に臨床講義を頼まれて)(当時、朝の院内ランに書いていたものである)
我々、鹿児島県に住む者にとっては、47都道府県のなかでもどちらかというと馴染みの薄い県の一つが福井県ではないだろうか。ところが永平寺、東尋坊、越前竹人形の里とくると、「あー、あの県か」と合点がいく。ところがこの福井県、いろいろな尺度で県別比較を行うと、結構がんばっている県なのである。
ホテルに置かれていた「越前そばの道しるべ」という小冊子の裏表紙を読むと、「なぜか長寿」というコーナーに、平均寿命が男女とも2位であり、その他にも貯蓄残高、女性の社会進出、社長輩出数、豆腐作り、食物繊維を多くとる、自動車所有台数などで県別1位、住まいの広さ、低い失業率、三世代同居などが2位なんだと誇らしげに書かれている。ちなみに我が鹿児島県は、ボランティア活動だけが3位に食い込んでいるだけ(これもよくわからない!)。
この福井県に、大学時代、同級生だった栗山君お誘いで、学生講義に招かれた。そして講義終了直後の夕方から翌日の昼過ぎまで、栗山君の錆び付いた4輪駆動車(雪国だからこのタイプが多いらしい、でも思い浮かべがちな医学部教授の車にはほど遠い)で、分刻みで名所旧跡を文字通り疾走したのである。彼も齢を経て人間的にはずいぶん幅が広がったのに驚いたが、車の運転は相変わらずで昔のスピード狂そのままである。
さてその名所であるが、冒頭のよく観光バスが停まるところは当然のこと、一乗谷朝倉氏遺跡、足羽山、継体天皇を祀る高向神社、称念寺(新田義貞を祀る墓)、丸岡城、丸岡町にある越前竹人形の里、養浩館(松平家の別邸)、郷土歴史博物館、大森房吉の銅像、越前おろしそば、はては永平寺道という道元が京都から永平寺へと歩いたという山道や恋坂など地元の人も滅多に近づかないようなマニアックな場所まで案内してくれた。
それもそのはず驚くなかれ、栗山教授は日本内科学会100周年福井県記念行事で、「福井医学史小話」という講演までされている。司会の福井大学第一内科の上田教授が、「福井御着任以来、(物好きにも・・・筆者注)生来の県民以上の情熱を郷土の歴史にそそがれ」と紹介するような郷土史家にと変身していたのである。
そのような歴史探訪の中でも彼が最も力説していたのが、鹿児島県と関わりのある越前(重富)島津家のことである。島津家系図の中で、第一代はあの有名な源頼朝の子供の忠久で、承久の乱(1221年)の論功功績で越前守護に、そして息子の忠時が越前の重富というところの地頭に任命された。その後数百年を経て1737年、島津家22代継豊は、帖佐郷の内脇元村、平松村、船津村、春花村の4村を弟の忠紀に与え、石高1万石の越前島津家を再興させた。そして越前にある重富の名前にちなんで、家名も重富家とよばれたのだという。そういう繋がりもあって、現在重富にある曹洞宗紹隆寺は、越前島津家の菩提寺である永平寺直轄の別院で、極めて格式の高いお寺の一つだとか。このお寺は毎日10号線から眺めていたわけであるが、そのようないわれのあるお寺とはつゆ知らなかった(栗山君の資料に基づいて書かせてもらった)。
我々、鹿児島県に住む者にとっては、47都道府県のなかでもどちらかというと馴染みの薄い県の一つが福井県ではないだろうか。ところが永平寺、東尋坊、越前竹人形の里とくると、「あー、あの県か」と合点がいく。ところがこの福井県、いろいろな尺度で県別比較を行うと、結構がんばっている県なのである。
ホテルに置かれていた「越前そばの道しるべ」という小冊子の裏表紙を読むと、「なぜか長寿」というコーナーに、平均寿命が男女とも2位であり、その他にも貯蓄残高、女性の社会進出、社長輩出数、豆腐作り、食物繊維を多くとる、自動車所有台数などで県別1位、住まいの広さ、低い失業率、三世代同居などが2位なんだと誇らしげに書かれている。ちなみに我が鹿児島県は、ボランティア活動だけが3位に食い込んでいるだけ(これもよくわからない!)。
この福井県に、大学時代、同級生だった栗山君お誘いで、学生講義に招かれた。そして講義終了直後の夕方から翌日の昼過ぎまで、栗山君の錆び付いた4輪駆動車(雪国だからこのタイプが多いらしい、でも思い浮かべがちな医学部教授の車にはほど遠い)で、分刻みで名所旧跡を文字通り疾走したのである。彼も齢を経て人間的にはずいぶん幅が広がったのに驚いたが、車の運転は相変わらずで昔のスピード狂そのままである。
さてその名所であるが、冒頭のよく観光バスが停まるところは当然のこと、一乗谷朝倉氏遺跡、足羽山、継体天皇を祀る高向神社、称念寺(新田義貞を祀る墓)、丸岡城、丸岡町にある越前竹人形の里、養浩館(松平家の別邸)、郷土歴史博物館、大森房吉の銅像、越前おろしそば、はては永平寺道という道元が京都から永平寺へと歩いたという山道や恋坂など地元の人も滅多に近づかないようなマニアックな場所まで案内してくれた。
それもそのはず驚くなかれ、栗山教授は日本内科学会100周年福井県記念行事で、「福井医学史小話」という講演までされている。司会の福井大学第一内科の上田教授が、「福井御着任以来、(物好きにも・・・筆者注)生来の県民以上の情熱を郷土の歴史にそそがれ」と紹介するような郷土史家にと変身していたのである。
そのような歴史探訪の中でも彼が最も力説していたのが、鹿児島県と関わりのある越前(重富)島津家のことである。島津家系図の中で、第一代はあの有名な源頼朝の子供の忠久で、承久の乱(1221年)の論功功績で越前守護に、そして息子の忠時が越前の重富というところの地頭に任命された。その後数百年を経て1737年、島津家22代継豊は、帖佐郷の内脇元村、平松村、船津村、春花村の4村を弟の忠紀に与え、石高1万石の越前島津家を再興させた。そして越前にある重富の名前にちなんで、家名も重富家とよばれたのだという。そういう繋がりもあって、現在重富にある曹洞宗紹隆寺は、越前島津家の菩提寺である永平寺直轄の別院で、極めて格式の高いお寺の一つだとか。このお寺は毎日10号線から眺めていたわけであるが、そのようないわれのあるお寺とはつゆ知らなかった(栗山君の資料に基づいて書かせてもらった)。
